アジェンデの大虐殺――その真相

2011年3月、アメリカ・テキサス州と国境に近いあるメキシコの小さな町で起きた、大量殺人事件。麻薬密輸組織ロス・セタスによって殺害された住民の数は、一説には300人にものぼると報道されている。だが、当局の捜査は手つかずのままで、住民は恐怖から沈黙を守り続けていた。勇気あるジャーナリストが被害者家族や捜査関係者、犯罪組織関係者にインタビューし、事件の背景を調査した。そして判明したのは、事件のきっかけになったのが、アメリカの対麻薬組織作戦を率いる捜査官の些細なミスだったという事実である。

大虐殺から6年たっても、犯行現場を片づけようとはだれもしていない。いまも、何区画も廃墟となったままである。残骸の間に、人々の暮らしの名残を示すものが散在する。
大虐殺から6年たっても、犯行現場を片づけようとはだれもしていない。いまも、何区画も廃墟となったままである。残骸の間に、人々の暮らしの名残を示すものが散在する。
2015年10月、メキシコ当局は大虐殺の犠牲者のために祈念碑を建立した。しかしこれは侮辱だという住民もいる。政府は何年もの間、虐殺を調査するための努力を一切してこなかったからだ。コンクリート製のオベリスクはアジェンデの入り口の非常に交通量の多いロータリーに設置されているが、訪れる人はほとんどいない。
2015年10月、メキシコ当局は大虐殺の犠牲者のために祈念碑を建立した。しかしこれは侮辱だという住民もいる。政府は何年もの間、虐殺を調査するための努力を一切してこなかったからだ。コンクリート製のオベリスクはアジェンデの入り口の非常に交通量の多いロータリーに設置されているが、訪れる人はほとんどいない。
警察の詰め所や消防署、軍の基地から遠くない場所にもかかわらず、セタスは通行人の目前で、アジェンデの民家や商店を破壊した。虐殺当時市長だった男性は、この破壊された家の向かいに今も住んでいる。当初、何の暴力の兆候もみられなかった、と報告していた。
警察の詰め所や消防署、軍の基地から遠くない場所にもかかわらず、セタスは通行人の目前で、アジェンデの民家や商店を破壊した。虐殺当時市長だった男性は、この破壊された家の向かいに今も住んでいる。当初、何の暴力の兆候もみられなかった、と報告していた。
犠牲者のひとり、ヘラルド・ハース。ピエドラス・ネグラスの15歳の中学生でサッカー選手だった。友人たちと一緒にいたときに、友人たちとその両親と一緒にセタスに連行された。死亡したと推定されている。ハースがサッカーのビブスにつけていた背番号55という数字は、虐殺に対する憤りのシンボルとして、出身の街の商店のショーウィンドウや自動車のバンパーを覆っている。大虐殺で殺された大部分の人と同じく、ハースは麻薬密輸とは何の関係もなかった。
犠牲者のひとり、ヘラルド・ハース。ピエドラス・ネグラスの15歳の中学生でサッカー選手だった。友人たちと一緒にいたときに、友人たちとその両親と一緒にセタスに連行された。死亡したと推定されている。ハースがサッカーのビブスにつけていた背番号55という数字は、虐殺に対する憤りのシンボルとして、出身の街の商店のショーウィンドウや自動車のバンパーを覆っている。大虐殺で殺された大部分の人と同じく、ハースは麻薬密輸とは何の関係もなかった。

 

How the U.S. Triggered a Massacre in Mexico

ProPublicaGinger Thompson, 2017612日 (National Geographic誌との共同取材)

https://www.propublica.org/article/allende-zetas-cartel-massacre-and-the-us-dea

 

 

 

 コアウイラ州検察庁失踪人担当課長ホセ・フアン・モラレスは次のように述べた。

 

「われわれは事件にかかわったとする人々の証言を得た。カルテルに関係する男たちを乗せた車両約50台がアジェンデに来たというのだ。民家に押し入り、強奪し、放火した。そのあと、その家に住んでいた人たちをアジェンデの町はずれの農場に連れて行った。彼らを殺害し、それから牧草があった倉庫に運んでディーゼルオイルを撒き、火を放った。火は何時間も燃え続けたと言うのだ」。

 

 

 

 アジェンデで何か恐ろしいことが起こった形跡はいまもそのままに残っている。町のもっとも通行量の多い通りのひとつが廃墟と化している。もとは豪邸だったところが、今はぼろぼろの外壁だけになり、壁には大きな穴が開き、天井は焦げて煤が付き、大理石のショーケースはひびが入り、柱は崩れかけている。靴、結婚式の招待状、薬、テレビなど、がれきの間に打ち砕かれた人の暮らしの名残りが、泥にまみれ、朽ち果てながら散らばっている。

 

 20113月、テキサス州との国境から車でわずか40分、人口約23000人の静かな牧畜の町が襲撃を受けた。世界でもっとも暴力的な麻薬密輸組織のひとつとされるロス・セタスの戦闘員らが、このアジェンデとその近隣の街を、あたかも突然の大洪水が襲ったかのように壊滅させた。民家や商店をなぎ倒し、何十人も、おそらくは何百人もの男たち、女たち、そして子どもたちを拉致し殺害した。

 

 破壊と誘拐は、数週間にわたり、場所を移動しながら続いた。犠牲者の家族のうち、助けを求めたのはごくわずかだった。その多くは町に住んでいなかったか、外に逃げていた人である。ある行方不明者に関する報告書に、「アジェンデはまるで戦争地帯のようだ」と書かれている。私が家族を通じて質問した人々の大部分は、自分たちの家族を探し続けることができなかった、と答えた。なぜなら外から来た人たちをセタスは嫌い、その人たちを拉致し行方不明にしていたからだという。

 

 

 

 対麻薬戦争によって破壊されたメキシコのほかの大部分の地域とは異なり、アジェンデで起こったことはメキシコに端を発したのではなかった。始まりはアメリカ側で、DEA(麻薬取締局)が予定外の成功を得た時だった。ある捜査官が、セタスのある重要なメンバーに、カルテルで最高位の2人のボス、ミゲル・アンヘル・トレビーニョとその兄弟のオマルの携帯電話を追跡できるパスワードを教えるようにと説得したのだ。

 

 その時、DEAはミスを犯した。その情報をメキシコの警察のある部隊に流したのだ。メキシコの警察は、DEAによって訓練されているとはいえ、ずっと以前から情報漏えいの問題を抱えていた。間髪を入れず、トレビーニョ兄弟は裏切られたことを知った。兄弟はその密告者とその家族、さらにどんなわずかでも裏切者とつながりを持つものすべてに復讐すると決めた。

 

 アジェンデで残虐行為が行われたことはとくに驚くべきものだった。なぜなら、毎月何千万ドルもの麻薬と武器を密輸するために、この町はアメリカに地理的に便利だというだけでなく、トレビーニョ兄弟は自分の家のように町を支配していたからだ。

 

 大量殺人事件のあと何年も、メキシコ当局は捜査をごくわずかしか行わなかった。アジェンデの町には犠牲者を祈念する記念碑が建立されたが、実際の犠牲者を完全に把握することも犯人を罰することもしなかった。最終的に、合衆国の当局がメキシコを支援してトレビーニョを逮捕させたが、そのために生じた膨大な犠牲には公表されなかった。アジェンデでは人々は苦しみながらも沈黙を守るしかなかった。公に声にすることは恐ろしくてできなかったからだ。

 

 1年前から、我々は、このコアウイラ州の町で起きたことに関する証言を集め始めた。この事件で被害を被ったり、何らかでかかわった人々に自分の言葉で語ってもらうことにしたのだ。しかしそれはしばしばそれぞれの人の命にかかわる可能性があるものだった。このような人々の声は、対麻薬密輸戦争のなかではめったに聞かれることがない。それは、自分の職務を放棄した公務員たち、カルテルと自分たちの隣人らから包囲された家族たち、DEAに協力したために自分の友人や家族が殺害されるのを目にしたカルテルメンバーたち、事件を担当したアメリカの検察官と調査を指揮したDEAの捜査官ら。彼らもまたこの物語に登場する大部分の人々と同様に、国境の両側に家族を持っているのである。

 

 事件にどのようにかかわったかインタビューしていたとき、捜査官のリチャード・マルティネスは椅子の上で泣き崩れた。「情報が漏れていた事実をどう感じたかだと? 正直に言うが、口にできないほどだ。そっとしておいてほしい。とても口にはできない」

 

 

 

――大虐殺――

 

2011年318日金曜日の日暮れ近く、ロス・セタスの武装集団がアジェンデの町に入ろうとしていた。

 

 

 

 グアダルーペ・ガルシア (退職公務員)

 

私たちは「コンパドレス」の店で食事中だった。そのとき男たちが入ってきた。地元の人じゃないことは、見た目でわかった。18~20歳くらいの若者たちだった。ハンバーガー50個をテイクアウト用に頼んだ。そのとき、何かが起きていると気がついて、家に帰ったほうがいいと決めたのだ。

 

 

 

 マルティン・マルケス (ホットドッグ売り)

 

事件は午後から始まった。武装した男たちがやってきた。裏切り者を探して家から家を探して回っていた。夜11時には通りにはもう車の通行がなくなった。何の物音もしなくなった。

 

 

 

 エテルビーナ・ロドリゲス (中学教師、殺害されたエベラルド・エリソンドの妻)

 

普段は夫のエベラルドは午後7時か7時半には家に帰っていた。私は家で彼を待っていた。7時になり7時半になり、8時、9時になっても帰らなかった。電話は通話不能になっていた。たぶん彼の母親の家に行っていて、充電し忘れたんだと思っていた。彼の母親の家に電話した。見かけていない、といい、たぶん友人たちとその辺にいるのではないかと言われた。しかしそんなはずはなかった。それなら私に知らせるはずだった。私は車で彼を探しに出かけた。

 

なにか緊張した雰囲気を感じた。夜の9時だった。金曜だからそう遅い時間ではない。しかし町中で誰も見かけなかった。

 

 

 

町はずれから数キロのところで、薄暗い2車線の道路沿いにある隣接したいくつかの農場で戦闘員たちは車から降りた。農場主はアジェンデでももっとも古い家族であるガルサ家の人たちだった。一族はおもに牧畜に従事し、ほかに石炭の採掘などいろいろな事業を行っていた。しかし、一族のメンバーによると、なかにはカルテルのために働く者もいたという。

 

ここにきて、その関係が命取りとなった。ロス・セタスが密告したと疑ったもののなかにホセ・ルイス・ガルサ・ジュニアがいた。セタスの中でやや地位の低いメンバーである。もっともその疑いは後になってから間違っていたことがわかったのだが。戦闘員を満載した軽トラックがアジェンデに着いたとき、目指した目的地のひとつが、街灯の少ない2車線の道路の脇にある、町から数キロのところのホセの父親、ルイス・ガルサの農場だった。

 

その日は給料日で、多くの労働者が給料の受け取りのために農場に来ていた。戦闘員らは農場に来ると、そこにいた人々を全員人質として取った。日が暮れかかるころ、農場内のコンクリートブロックの大きな倉庫のひとつから炎が上がり始めた。そこでカルテルが遺体を燃やしていたのだ。

 

 

 

サラ・アンヘリータ・リラ (薬剤師、被害にあったロドルフォ・ガルサ・ジュニアの妻)

 

 夫のロドルフォは帰ってくると、「頭がすごく痛い。風呂に入る」といった。新しい炭鉱を採掘しているところだったので、全身ほこりまみれだった。しばらくして彼の電話が鳴り始めた。私は彼はもう寝に行ったと思っていたが、夫は服をきちんと着て、寝室から出てきて、それまで一度も見せたことがないような目つきで私を見た。「家から出るな」と私に言った。「何かが起こっている。何かわからないが。行ってすぐ戻ってくる」

 

 そのすぐ後、私に電話してきて、「家から出ろ、しかし家の車では行くな。いとこに頼んで、娘のソフィアと一緒に自分の母親の家に連れて行ってもらえ」といった。

 

 彼の伯父のルイスの農場は炎に包まれていた。入り口にはたくさんの武装した男たちがいた。彼の姉は電話に出なかった。彼の父親も。ロドルフォは自分の使用人のひとり、ピロを玄関まで様子を見に行かせた。ピロは元兵士だった。男たちは玄関を開けた。ピロは中に入り、それきり出てこなかった。 

 

 ロドルフォはどうしようもなくうろたえていた。彼の両親も見つからない。姉も見つからない。さらに彼の一番優秀な使用人もいなくなってしまった。裏口から農場に入ってみる、と私に言った。

 

 数分後、もう一度電話があった。声が低すぎてほとんど聞こえないくらいだった。「アジェンデから出ていくんだ。いとこに言って、イーグル・パスに連れて行ってもらえ。荷造りはするな。今すぐ行くんだ」

 

 

 

エバリスト・トレビーニョ(セタスのボスらと親族関係はない) 元消防署長 

 

 私の部下の消防士らは、ガルサ家の農場が火事だとの通報を受け、出動した。アジェンデから3キロ足らずのところである。ガルサ家ではパーティーが行われていたようだった。小型消防車も最初に現場に出動していた。現場に着くと、組織犯罪関係の者たちがいることに気が付いた。彼らは消防士らに乱暴に銃を突き付け、引き返すようにと命じた。これからもっとたくさん事件が起こる、銃撃や火事などたくさん緊急通報が来るだろう、しかしそれに応えて出動してはいけない、と言われた。

 

 消防署長の役割として、それを上司に報告した。この場合は市長である。市長に、われわれはどうしようもない状況にある、我々はただ、直面している脅威から身を守ることしかできない、と報告した。武装した男たちの数が多すぎた。我々は命の危険を感じた。銃弾に水で応戦はできないのだ。

 

 

 

 アジェンデから、戦闘員らは地元の人々を次々に拉致しながら、乾いた平原の続くピエドラス・ネグラスの街まで55キロの道を北に向かって進んで行った。そこはリオ・ブラボーに沿った埃っぽい組み立て工場が立ち並ぶ地区である。セタスメンバーらは犠牲者の多くをガルサ家の農場まで連れて行った。そこには15歳の中学生でサッカー選手のヘラルド・ハースと工場で働く36歳のエンジニア、エドガル・アビラもいた。2人はカルテルとも、DEAに協力したとカルテルが思い込んでいた人々とも、何の関係もなかった。ただそこにいただけだった。

 

 

 

クラウディア・サンチェス (文化担当局長で犠牲者のヘラルド・ハースの母親)

 

 私たちは翌日朝5時にサッカーの試合が行われるサン・アントニオに行くために荷造りしている最中だった。ヘラルドは出場する予定だったので、私たちは早くに行っていなくてはならなかった。ヘラルドと彼の妹は外で遊んでいた。窓から外を見ると、ヘラルドの友人2人が車で来るのが見えた。近所の子たちだった。

 

 ヘラルドは中に入って来て、私に友達と出かけていいか尋ねた。「ダメよ、ヘラルド。荷造りしなくちゃ」。でもすぐに、ヘラルドが誕生日に買ってもらった服をもう準備していたのに気が付いた。15歳になったばかりだった。シャツは青色で、彼の眼の色と合っていた。「いいでしょ、ママ。すぐに帰るから」と私に言った。

 

 「いいわ、ヘラルド。遅くならないようにね」と彼に言った。

 

 その夜10時ごろ、夫はヘラルドの携帯電話に何時に戻るのかと連絡を入れた。ヘラルドは電話に出なかった。夫はもう一度かけた。出なかった。すぐ後でドアベルが鳴った。ヘラルドの学校の友人たちだった。おびえているようだった。「どうしたの? ヘラルドはどこ?」とたずねた。

 

 「連れて行かれた」と友人たちは答えた。

 

 「何の話? 誰が連れて行ったの?」と私はたずねた。

 

 少年たちによると、彼らの家の前にヘラルドと近所の子たちがいるのを見た。そこに武装した男たちがぎっしり乗った軽トラックが来て、その近所の子たちとヘラルドを乗せて行ってしまった、というのだ。知らない男たちだった、と少年たちは言った。武器を持っていたので、何も言えなかった。

 

 数分後、私たちはピエドラス・ネグラスの市長に電話をかけた。市長は結婚式に出席している最中だった。事件はとんでもないことだと思う、しかし自分にできることは何もない、と市長は言った。パトカーの1台すら来なかった。

 

 

 

マリア・エウヘニア・ベラ (弁護士、犠牲者のエドガル・アビラの妻)

 

 私は職場にいて、私が書いた裁定案に判事がサインをしてくれるのを待っていた。その時、エドガルが電話をしてきて、友人のトニョからサッカーの観戦に誘われたといってきた。私は妊娠していて、家に帰るとひどく疲れを感じた。エドガルはもう娘に夕食を食べさせ、風呂にも入れていた。私は彼に、出かける前に私のためにミートパイを買って来てと頼んだ。彼は買ってきてくれて、キスをした。

 

 目が覚めたのは夜中の2時だった。エドガルが帰って来ていなかったのだ。電話をかけたがまったくつながらなかった。「エドガルが電話もよこさないなんて、変だわ」。エドガルはいつも私に電話してきていたのだ。

 

 私はその夜、朝までソファに座ったまま彼を待っていた。朝の6時半ごろまで待って、私の姉に電話をした。エドガルが家に帰らなかったと言うと、彼女は私の家に来て、パジャマのまま、彼女とその夫と一緒にトニョの家に行った。家は無人だった。しかし暴力が振るわれた痕跡があった。家の中のものがすべてひっくり返されていた。

 

 

 

 翌朝、319日土曜日、カルテルメンバーらは重機の運転手を何人も呼び、地区にある何十軒もの家や商店をすべて取り壊すよう命じた。真っ昼間、町の繁華街で人通りも多い地区のたくさんの家や商店が略奪にあった。通行人が目撃していただけではない。市役所や警察署や軍の詰所からも近い場所なのである。カルテルメンバーらは町の人々に呼びかけ、何でもほしいものを持って行けと言い、人々は競って略奪を始めた。

 

 役所の記録によると、州当局の担当部署には、あらゆる地区から騒動や火事やけんかや「民家への不法侵入」などの通報が250件も、嵐のようにかかってきていた。しかし誰ひとりそれに応えて出動したものはいなかった、と取材に応じた人々は証言した。

 

 

 

エテルビーナ・ロドリゲス (犠牲者の一人の妻)

 

 すべては土曜日に始まった。彼らが家々を壊し始めた。人が家に入り込んできて、略奪し始めた。私に考えられたことはただ、夫のエベラルドはどこにいるんだろうかということだけだった。土曜日はずっと彼を探して回り、「何かわかった?」と皆に電話していた。

 

 「武装した男を見た」とひとりが言い、「倉庫は燃え続けている。煙は真っ黒だ。まるでタイヤを燃やしているみたいだ。恐ろしいほど真っ黒な煙だ」と別の人は言った。

 

 夫と一緒に働いていた男が電話をしてきた。夫は闘鶏用の鶏を飼育していた。この地方では、闘鶏はとても人気がある。彼はホセ・ルイス・ガルサのために仕事をしていたが、フルタイムではなかった。朝だけ行って、午後は家畜の餌やりに行っていた。

 

 「あの農場はひどいことになっている。みんなに何が起こったのかわからない」とその男は言った。「みんなに何が起こったかってどういう意味? みんなって誰のこと?」と私はたずねた。

 

 夫と一緒に働いていた人たちの多くはその夜、家に帰らなかったといった。トラクターの運転手もいれば、水まきの仕事をしていた人もいた。誰も家に戻らなかったのだ。

 

 彼にたずねた。「じゃあ、どうしたらいいの? 彼らを探しましょう」。すると彼は私に言った。「あんた、あそこに近づいちゃいけない。あんたも連れて行かれてしまう」。

 

 脳裏に焼き付いている場面がある。人々が農場に入り込んで、家畜用の餌の大袋を持ち出し、ケージに入ったオウムまで持ち去っていたのだ。ランプや食堂のキッチンセットまで持って行っていた。

 

 今も強烈に記憶に残っているのは、小さなバイクに2人乗りして男女の姿だ。女はシーツを袋代わりにしていた。片手に、まるでサンタクロースのように、物でいっぱいに膨れた袋を持ち、もう一方の手にランプを握っていた。そうやってバイクに乗っていたので、ふらついて倒れそうだった。それでも物をいっぱい持って、2人はうれしそうに見えた。

 

 

 

マルケス (ホットドッグ売り)

 

 2人の友人がくず鉄の売り買いの仕事をしていた。農場が火事になって、農場主たちは逃げて行ったことに気が付いた。その2人は親子なんだが、彼らは何か金目のものでもないかと見に行った。道路脇に大きな冷凍庫があるのを見つけ、持って行こうとしたがとても重かった。父親が言った。「手伝え、持ち上げるんだ」。扉を開けると、中に死体が2つ入っていた。2人は逃げ出したとさ。

 

 

 

エバリスト・ロドリゴス (獣医、当時の副市長)

 

 行政区議員全員が会議に集合していた。公式の招集ではなかったが、みな来た。市長に議員全員、公安局長も。当然、質問がたくさん出た。一番問題だったのは、「何が起こっているのか?」だった。みなそれを知りたかった。なぜ、こんなことが? もう皆、銃撃や拉致事件や殺人が起こっているのは知っていた。

 

 われわれは何をすべきかも議論した。しかし誰も自分がなにかやろうとは言わなかった。議員のひとりはこう言った。「おい、われわれはここから逃げよう。市庁舎から。われわれの方に向かってくるかもしれないから」。

 

 私はヒーローぶろうとは思わなかったが、少なくとも、逃げ出したと人々に思われたくなかったので、われわれはオフィスに残るべきだと思っていた。しかし議員は全員逃げたがった。みな自分の家族のほうが心配だった。

 

 われわれが暮らしていた状況から言って、なにかにつけて信用できなかった。ここには2つの政府があった。つまりこういうことだ。コアウイラ州の表向きの政府と、犯罪者による政府と。実際の支配権はやつらが握っていた。警察が組織に支配されていたことはわれわれは知っていた。

 

 公安局長はわれわれにこう言った。「これは何かやつらの内輪の問題だ」。それ以上のことは言わなかった。それで十分だった。私は理解した。「調査も介入もしてはいけない。そうでないとひどい目に遭う」

 

 

 

リラ (被害者のひとりの妻)

 

 ロドルフォからの最後の電話は、1215分前だった。疲れ果てたような声だった。彼の両親の消息はまだまったくわからなかった。彼らのことはもう十分やったから、いまは娘のソフィアと私のことを考える時だと彼に言った。私たちと一緒にイーグル・パスに来てくれるように彼に頼んだ。彼は、「わかった、いま行く」と言った。

 

 それきり、彼の消息は途絶えた。

 

 

 

サンチェス (犠牲者のひとりの母)

 

 息子を奪われたときにどうふるまっていいのか教えてくれるマニュアルなんてない。どうしていいのかわからない。頭がおかしくなる。走り出したい。しかしどこへ行っていいのかわからない。叫びたい。でも誰か聞いてくれるのかもわからない。いとこのひとりがフェイスブックに書いてみたらとアドバイスしてくれた。そこでこう書いた。「息子を返して。どこにいるか知っている人がいたら、私の元に連れ戻して」

 

 

 

ベラ (犠牲者のひとりの妻)

 

 私がどう感じたか、どう説明したらいい? その日、まるで私もまた拉致されて行ったようなものだった。別のかたちで、私も死んだのだ。私たちが思い描いていた未来も、計画も、夢も、平和な日々も、全部殺された。あの頃、エドガルと一緒に暮らした年月の方が彼に会う前の年月よりもう長くなっていた。それだけでも想像してみて。そのうえ、私は妊娠していた。精神安定剤を飲むことはできなかった。なんとか平静を保てるようにするしかなかった。それでも、家に戻ると崩れ落ちそうなほど辛くなった。家中どこに座っても、心が落ち着くことはなかった。理解することができなかった。私は弁護士だけど、なにが起こったのか理解できなかったのだ。

 

 

 

――作戦――

 

 事件の数か月前、ダラス郊外でDEAは、一斉検挙で予想外の成果を上げたのち、「徹底取締り作戦」を展開していた。そのひとつで警察は、軽トラックのガソリンタンクに現金802000ドルが隠されているのを発見していた。運転手は、「エル・ディアブロ」という名前だけしか知らない男のために働いていると言った。

 

 さらに何人かを逮捕した後、DEAの捜査官リチャード・マルティネスと、連邦検事補佐アーネスト・ゴンサレスは、エル・ディアブロが30歳のホセ・バスケス・ジュニアだと突き止めた。ダラス出身で中学在学中から麻薬を売り始めており、当時テキサス東部ではセタスのもっとも重要なコカインの卸業者だった。毎月何台ものトラックに、麻薬と武器と現金を満載して動かしていたのだ。

 

 男を逮捕するための準備をしている間に、バスケスは国境を越えてアジェンデ側に逃げた。そこでカルテル内部の仲間にかくまってもらおうとしたのだ。

 

 しかしマルティネスとゴンサレスはこの逃亡をチャンスととらえた。もしバスケスを、自分たちに協力するよう説得できたら、近づくことが非常に難しいカルテルのランクの高いメンバーにアクセスでき、そしてセタスのボスたち、とくにZ-40Z-42と呼ばれるトレビーニョ兄弟を逮捕できる可能性につながるかもしれない。トレビーニョ兄弟は、DEAの重要指名手配犯リストの最上位にあり、これまでに無数の人々を殺害してきている。ミゲル・アンヘル・トレビーニョがZ-40、オマルがZ-42である。

 

 

 

ホセ・バスケス・ジュニア (セタスの協力者)

 

 朝の6時に妻が電話してきた。「ねえ、家が包囲されてるのよ」と言った。

 

「家が包囲されているってどういうことだ?」と彼女にたずねた。

 

「外に警察がたくさんいるのよ」と彼女は答えた。

 

「そうだな、たぶんお前は逮捕される。弁護士に電話するよ。やつらには何も言うな。できるだけ落ち着いているんだ。保釈金で出してやるから」と彼女に言った。

 

「携帯は壊すんだ」。家には流れのとてもいい水洗トイレがあって、彼女は携帯電話を壊してトイレに流した。

 

そのときリカルド・マルティネスが向こう側から私に電話してきた。やつはそばの妻も聞けるように電話をスピーカーモードにした。

 

 妻を逮捕すると私を脅した。だましだと考え、「やるべきことをやればいい」とやつに答えた。

 

 

 

 アーネスト・ゴンサレス (検事補佐)

 

 最初は、ホセ・バスケスが降参して協力してくれればいいとだけ考えていた。それでセタスの組織の構造を説明してくれればと。そのときはそれで十分だと考えていた。なぜなら自分たちが実際、どれだけミゲルとオマル兄弟に近づいていたか、わかっていなかったからだ。やつが誰と話し、誰と会っていたかしゃべり始めるまで、われわれはやつらのことを知らなかったのだ。そのときになって初めて、われわれに何が可能になったのか、見通しがついてきた。われわれは兄弟を逮捕するための計画を立て始めた。

 

 ホセが降参せず、妻を犠牲にしてもいいと考えているらしいとみると、もっと強くプレッシャーをかける必要があると考えた。

 

 リチャードがこう言った。「お前の母親を告発するぞ」

 

 

 

バスケス (セタスの協力者)

 

 「おい、やめてくれ、いますぐ国境に行って、自首する。全部自白する。押収品の書類に全部サインする。終身刑にしてくれ。手錠のカギは捨てていい。それでかまわない。しかし妻と母には手を出さないでくれ」とやつに言った。

 

 するとやつはこう言った。「なあ、お前の妻や母親が刑務所に行かなくてすむようにするには、お前がわれわれに協力するしかないんだ」

 

 「リチャード、協力はしたくない。死者がたくさん出てしまう」と彼に答えた。

 

「お前に言えるのはこれだけだ。協力しないなら、2人はお前と一緒に刑務所に行くことになる」と彼は言った。 

 

 「何が欲しい?」と私はリチャードにたずねた。

 

 

 

リチャード・マルティネス (DEA捜査員)

 

 「私は番号を知りたかった。セタスのリーダーたちを逮捕したかった。この番号がわかれば、やつらを捕まえるチャンスが得られると思った。

 

 危なくなると、こういったやつらの多くはアメリカから逃げ出す。しかし、こちら側で育ったのであれば、まだアメリカ合衆国は世界で一番いい国だ。またいつの日か戻りたくなる国だ。家族がこっちにいるなら、彼らの元に戻りたくなる。ホセが、もう祭りは終わったと気が付けば、やるべきことをやってわれわれに協力するだろうと考えた。チャンスがあるうちにそうするよう、私はプレッシャーをかけようとした。

 

 

 

 話がずれるが、子どもころ、メキシコによくっていたのを思い出す。私の母はメキシコのモンテレイの出身だった。コアウイラにいたことがあるんだ。いまはもう戻れない。それは悲しいことだ。向こうの田舎道を歩くことはもうできない。家族を連れて向こうに戻りたいと思うができない。

 

 

 

 その暗唱番号は、私にとって大きな手がかりだった。とてつもなく重要なものだった。組織の頂点に君臨するミゲル・アンヘルとオマルのトレビーニョ兄弟を捕まえるためのチャンスだったのだ。 

 

 

 

ゴンサレス (連邦検事補佐)

 

 それは何か、まったく個人的な思いだった。自分のルーツ、個人的な、祖先から引き継いだものに関わる大事なものだった。そしてロス・セタスがメキシコで何をしているか知っていたからこそ重要だった。私は夏休みを向こうの祖父母の家で過ごしたものだった。祖父母は牧場や農園を持っていた。私は少年時代をメキシコで楽しく過ごした。この組織は、その強欲さと暴力で、そのすべてを破壊していたのだ。

 

 

 

逮捕を逃れるため、セタスはコアウイラ州の側近の幹部、「ポンチョ」ことマリオ・アルフォンソ・クエジャルに34週間ごとに携帯電話を新しいものに交換させていた。クエジャルは新しい携帯を買う役目を、自分の右腕のエクトル・モレノにやらせていた。

 

携帯電話の暗唱暗号を入手するようにと迫られ、バスケスは自分が知っていた情報を使ってモレノのもとに相談に行った。トラックのガソリンタンクに802000ドルの現金を隠していて捕まったヒルベルトは、モレノの兄弟だったのだ。20年の刑の減刑と引き換えに、ヒルベルトはセタスの下で働いていたこと、現金はトレビーニョ兄弟のものだと自白していた。

 

バスケスは、ダラスの弁護士にヒルベルトの代理人を務めさせ、カルテルメンバーの誰にもヒルベルトが密告したとわからないようにすると約束した。モレノは、暗証番号を入手することでバスケスに恩返しをするのだ。しかし、いざその時になって、モレノは躊躇した。

 

 

 

エクトル・モレノ (セタスの元メンバー)

 

 セタスはすべてをコントロールしていた。やりたい放題だった。軍がどこかに行くときには、軍の誰かが前もって知らせていた。

 

 ときには連邦警察官が200人も乗った飛行機が来ることもあった。しかし1週間前に連絡を受けていた。「どこそこの隠れ家に何か置いてるか?」

 

「いや、そこには何もない」と答えたものだった。

 

「そりゃよかった。その場所に捜索令状が出ていて、木曜に警察が行く予定だから」と言ってたものだ。

 

 政府はわれわれに何でも伝えた。だから、もし政府が暗証番号を入手したら、そのことはロス・セタスにすぐばれることはわかっていた。

 

 

 

バスケス (ロス・セタスの協力者)

 

 エクトルが暗証番号を私に教えると言っていた日に、彼に電話をした。やつはこう言った。「暗証番号を手に入れた。しかし捨てた」。

 

「なんだって? おれに教えると言ったじゃないか」と彼に言った。

 

「その番号で俺たちはとんでもない問題に巻き込まれることになる。だから窓から捨てた」とやつは答えた。

 

「やつらが俺を待っているんだ。暗唱番号を教えると約束したんだ。俺の家族はどうなる?」

 

 しばらくしてやつを説き伏せ、奴がメモを捨てた場所までわれわれは戻ることにした。12時間、あちこち歩き回ってやっとその紙切れを見つけた。

 

 セタ4042の、全部の番号を手に入れた。その番号で何をしようとしていたのか知らなかった。盗聴か何かしようといていたんだろうと考えた。その番号がすぐにメキシコに送られることになるとは思いもしなかった。彼らには、そうしないようにと言った。たくさんの人が殺されることになるからだ。それだけではなかった。俺はまだメキシコ側にいたのだ。まだ向こう側の人たちと一緒だった。そんなことしない、と彼らは俺に言った。リチャードは自分を信用しろと言った。

 

 

 

――占領――

 

 アジェンデの人々は、違法行為と無縁というわけではなかった。北の国境に近いことから、住民たちは週末にテキサス州のイーグル・パスのショッピングセンターに買い物にでかける。ずっと昔から、町では密輸に従事する家族が何事もなく暮らしていた。しかし2007年ごろから、ロス・セタスはこの町を、金と武力で支配するようになった。ライバルたちを駆逐し、重要な政府機関をコントロールし、地元警察を自分たちの子分にし、この地域をあらゆる犯罪者の隠れ家に変えた。

 

 町の社会に溶け込み、地元の家族メンバーと結婚したり仲良くなったりした。地元民の中にはカルテルメンバーになるものもいた。そのなかに、裕福な農場主で鉱山主であったガルサ家のメンバーがいたのだ。

 

 

 

カルロス・オスナ (退職した企業家、PAN(国民行動党)の活動家)

 

 2011年にこの町で勃発した暴力事件は、突然起きたものではなかった。ずっと昔から麻薬密輸はあった。長い間ここでボスだったのは、ビセンテ・ラフエンテ・ゲレカという男だけだった。皆、奴が何者か知っていたし、何の仕事をしていたのか知っていた。しかし互いに干渉しなかった。彼は町の人々に悪さをしなかったし、人々も彼に何も言わなかった。そんなふうにして、町の暮らしはそれなりに平穏に保たれていた。麻薬は町を経由して密輸されていたが、人々は干渉しなかった。ラフエンテは政府にも町の人々にも関わらなかった。誘拐も何もなかった。

 

 しかし、ラフエンテが殺害されて、平和な共存は終わってしまった。

 

 

 

モレノ (セタスの元メンバー)

 

 ロス・セタスは、ひとつの町にやってくると、自分たちに協力させるために人々をリクルートした。地域の麻薬密輸人は皆、セタスのために働かなくてはならなかった。独立したグループはもうなくなった。奴らが来る前は、コアウイラはいわばフリーマーケットのようなものだった。誰でも自由に仕事ができた。ロス・テハス(ヌエボ・ラレドをベースとする組織)がいた。エル・チャポ(ホアキン・グスマン、シナロア・カルテルのボス)のグループもいた。しかしロス・セタスが来て、ロス・テハスのボス、オマル・ルビオを殺した。ビセンテ・ラフエンテやもう何人か大物密輸人を殺した。そして残った者たちを配下に入れた。

 

 私の家族はずっと昔からこの地方で暮らしていた。母方の家族は葬儀社と金物屋を営んでいた。父方は農場を持っていた。しかし実際、それらの仕事はどれも、麻薬密輸ほど金にはならなかった。だから私はこの仕事に入ったのだ。

 

 

 

アンヘル・ウンベルト・ガルシア (医者、元国会議員)

 

 国会議員だった頃、アジェンデの農業経営者や農園主が私に会いに来るようになった。彼らは命の危険があるといっておびえていた。犯罪者たちが自分たちの土地を占有してしまったと言った。自分の土地に入るためには犯罪者たちに許可を求めなければならない、と言う人もいた。

 

 そのひとりがホセ・ピニャだった。警察に助けを求めたが、何もできないと言われたと言った。彼の土地から数メートルのところに軍の検問所があったので、彼にたずねた。「それで軍は?」彼はこう言った。「兵士らにも言ったが、何も」。「何もって、どういう意味なんだ?」とたずねると、「何もしてくれないんです」

 

 ロス・セタスは、農場を占有する代わりに金を出すと言っていたが、もらおうとしなかった。行政区長にも州知事にも訴えて出ていた。しかし訴えを聞いてくれる人がいなかった。それで私のところに来て、大統領宛ての手書きの手紙を私に預けた。

 

 その2日後、ピニャ氏は殺されたのだ。

 

 

 

 メキシコの新聞「エル・ウニベルサル」が、2009年のその殺人事件を報じていた。ピニャ氏の遺体はあるカトリック系小学校の裏で発見された。遺体には無数の銃弾が撃ち込まれていた。記事によると、舌と指が切り取られ、指の1本は口に入れられていたと報じていた。殺人犯たちは一枚のメモを残していた。「われわれはお前たちに干渉しない。お前たちはわれわれに渉してはならない」

 

 

 

モレノ (セタスの元メンバー)

 

 ロス・セタスがピニャを殺したのは、彼の農場がリオ・ブラボに面していたからだ。セタ4042も、毎日のようにあのあたりを通っていた。門を開けっぱなしにしていたので、家畜が逃げてしまっていた。そのことで軍に訴えていた。兵士らがロス・セタスに知らせて、それでセタスが殺しに行ったのだ。

 

 

 

リカルド・トレビーニョ(セタスのリーダーらとは親族関係なし)(アジェンデの元行政区長) 

 

 ある夜、ロス・セタスが私の息子を殴りつけた。身体中青あざができていた。顔は腫れ上がっていた。機関銃を頭に突き付け、撃つぞと脅かした。彼は友人たちを飲んでいたところだった。ガソリンスタンドでセタスにつかまった。セタスは警察署のすぐ前で、息子を殴りつけたのだ。

 

 私は警察に行って詰問した。「いったいどうしてお前たちはあんな奴らに息子を殴らせたんだ?」パトカーのカギを取り上げて言った。「人々を守らないなら、なんのために警官は町をパトロールしているんだ?」

 

 私はこう言われた。「われわれは彼らに手出しはできません。もし捕まえようとしたら殺されます。奴らは武器をたくさん持っているんです」

 

 それからしばらくして、出かけて飲み過ぎたことがあった。自分の車のほうに歩いていたとき、何人かの警察官を見かけた。「(セタスの)ボスに、俺が会いたがっていると言え」と彼らに叫んだ。

 

 その翌日、町の業務をしていたところ、車が何台も列をなしてこちらに向かってくるのが見えた。車の列は私の前で停まった。「ボスがあなたと話したいそうです」。私は車の1台に連れて行かれた。運転手の隣りに乗った。それがセタ42だった。

 

「市長さん、ご用件は何でしょうか?」と聞いてきた。

 

「おい、もし自分の息子が誰かに思いきり殴られたら、どう感じる? 怒らないわけがないだろう?」

 

「もちろんです」と彼は答えた。

 

「だから私は怒っているんだ。あなたたちは武器を持っていて、われわれは何もできないから、自分たちは偉いと思っている。その通りかもしれない。しかし私の家族に関しては、家族の誰かに手出しするなら、私のところに来い。誰かを殺したいなら、私を殺せ」。

 

「私はあなたを殺したりしませんよ。あなたは私の敵ではない。あなたが自分のことだけやって、私たちを放っておいてくれれば。しかし、息子さんは夜間は家から出させないでください。お友達と飲みたいのであれば、家でやってください。夜はわれわれのものです」。

 

 

 

フェルナンド・プロン (ピエドラス・ネグラス行政区長)

 

 ある時から、ロス・セタスがあらゆる商業活動を、ある意味で支配し始めた、その兆候が見えるようになった。麻薬と武器の密輸のほかに、サービス業や不動産や建設業の分野で、会社や事業を始めるようになったのだ。

 

 例えば、国境でペソとドルを交換する両替商を始めた。コンサートやダンスパーティーを催した。レストランやバーや売春宿を始めた。中古車の売買も始めた。その後、さらに大きな事業も始めた。ショッピングセンターやホテルやカジノの建設も始めたのだ。

 

 そして彼らはここに住み着くようになった。しばらくして、彼らの子どもたちは私たちの子どもと同じ学校に通うようになった。

 

 郊外や町外れの農場にでも住んでいたわけではないのだ。ここに、行政区庁舎の目の前に住んでいたんだ。実際、このバルコニーから、彼らが暮らしていた家がどれか教えることができる。

 

 皆、彼らを怖がっていた。ロス・セタスは政府より強かった。わかりますか? 経済的にずっと強かった。よく組織化されていた。武器もずっと強力だった。皆怖がっていた。怖がらない人たちは、買収された者たちだった。

 

 

 

オスナ (退職した企業家、PANの活動家)

 

 人々の間でもっとも大きな影響を受けたのは、自由がなくなったことだった。自分の農場にも行けず、そぐその角まで行くのも、誰かと間違えられて殴られたり、あるいはもっとひどい目に遭うかもしれないとおびえなくてはならなかった。自由がないことが辛かった。

 

 それでも、(カルテルに)自分たちがかかわっていなくても、彼らはわれわれと関係を築いていた。彼らのうちのひとりが、親しい友人のいとこや娘と結婚し、パーティーやクリスマスの夕食会で同席するようになったのだ。

 

 最初は、恐怖から私たちは黙っているだけだった。しかし残念なことに麻薬密輸は大金をもたらす。われわれは金にひかれる。そうして、奴らは大金をもってやって来て、ばらまき始め、いつの間にか、奴らはライオンズクラブの会員になっていたのだ。

 

 気が付くのは難しくはなかった。われわれの社会は小さい。皆、ほかの人の収入レベルを知っていた。だから誰かがそれまで1000ペソで暮らしていたのに、ある日300万ペソ持っていたら、おいちょっと待て、何かあるぞと言ったものだ。しかし残念なことに、われわれはみなそれを受け入れてしまった。

 

 

 

――情報漏えい――

 

 バスケスがDEAに暗証番号を教えてから約3週間後、カルテルのボスたちは内部の誰かが裏切ったという情報を入手し、大掛かりな復讐を開始した。

 

 この件に詳しい情報源によると、メキシコシティのDEAのあるスーパーバイザーが、この暗証番号に関連した情報を、機密捜査班として知られるメキシコ連邦警察の捜査部門に流した。その部門の捜査官らはDEAでトレーニングされ、試験も受けていた。にもかかわらず、規範は緩み、情報は犯罪者にすぐ漏れてしまっていた。情報源によると、同部門のある捜査官が情報漏えいの責任者だった。事件が起きたとき、同部門の上司らはいくつもインタビューの申し入れがあったにもかかわらず応じなかった。

 

 しかしこの年(2017年)の初め、同部門のスーパーバイザーのひとり、イバン・レイエス・アルサテが合衆国の連邦当局に自首し、DEAの捜査に関する情報を麻薬密輸組織に流していたとして裁かれることになった。アジェンデ事件でレイエスが情報漏えいの責任者なのかどうかははっきりしていない。

 

 ロス・セタスにとっては、密告者かもしれない人物のリストを絞り込むのは難しくなかった。彼らの暗証番号にアクセスできる人物はごくわずかだったからだ。そのなかに。トレビーニョ兄弟のもっとも重要な幹部の「ポンチョ」ことマリオ・アルフォンソ・クエジャルとその腹心、エクトル・モレノが入っていた。

 

 モレノは、クエジャルには内緒で、バスケスに暗証番号を教えていたのだ。バスケスに恩返しをしていたのだ。モレノの兄弟のヒルベルトがガソリンタンクに802000ドルの現金を隠していたトラックの運転手をしていたのだ。20年の刑を受けるかもしれないと言われ、ヒルベルトはセタスのために働いていたこと、金はトレビーニョ兄弟のものだと自白していた。バスケスは手を打って、彼の弁護士がヒルベルトの弁護をし、カルテルのほかの誰にも彼が自白したことを知られないようにすると約束した。

 

 

 

「ポンチョ」ことマリオ・アルフォンソ・クエジャル (ロス・セタスの幹部)

 

 問題が起こったことを、どうやって知ったかって? 私はカルテルのコカイン596キロを持っていて、セタ40がそれを私から取り上げるために男をよこしてきたのだ。こういうのはこれまで何度も見たことがあった。セタ40は、組織の中の誰かを殺そうと考えたとき、最初に自分のブツを取り戻していたのだ。

 

 奴は私にヒキガエルの絵で覆われた自分の写真を送ってきた。写真の下にこう書いてきた。「おい、告げ口屋のおかげで俺はとんでもないことになったぜ」。ヒキガエルというのは、密告者を表す言葉だ。

 

 セタ40に電話してたずねた。「おい、これはどういう意味だ?」。答えなかった。

 

「お前に会う必要がある。この後どこにいる?」私に言ったのは、これだけだった。

 

 競馬場にいるつもりだと、彼に言った。しかし行かなかった。部下を呼んで、そこで何が起こるか見てくるように頼んだ。部下は向こうに着くと、電話してきてこう言った。「最悪です」。セタ40の部下のひとりがそこにいて、私が来なかったことを口汚くののしっていたという。それで、私は逃げなくてはならないと気が付いたのだ。

 

 部下全員に電話し、こう言った。「問題が起こった。逃げるんだ」。残念なことに、彼らの誰も本気にしなかった。セタ40は私を見つけられなかったので、彼らのほうに向かって行ったのだ。

 

 

 

バスケス (セタスのメンバー)

 

 エクトル・モレノが私に電話してきて、とんでもない事態になりそうだと言った。あの番号をどうしたのかと私にたずねた。私はDEAに教えたと言った。「何か起こってる。どういうわけでか。ロス・セタスにばれたのだ」

 

 私はリチャード・マルティネスに電話し、たずねた。「あの番号をどうしたんだ?」

 

 するとこう答えた。「メキシコに送ってしまったんだ」

 

「なんでそんなことなったんだ? あの番号がメキシコ側に渡ったら、どういうことになるか、お前に言ったぞ」

 

 リチャードはこう答えた。「いや、私がやったんじゃない。私が決めたんじゃない。上層部が決めたんだ。ボスのやったことだ。向こうに信用できる友だちがいると思って、メキシコ側にあの番号を送ってしまったんだ。

 

 

 

ゴンサレス (連邦検察官補佐)

 

 リチャードが電話してきて、番号を入手したが、メキシコ側に送られてしまった、と言った。「なんだって?」と詰問した。番号に関して、どのように扱うか相談するための会合は持っていなかった。私は怒った。リチャードも私と同じ考えだったはずだ。そんなことはしてもらいたくなかった。しかしどうしようもなかった。「やったのはボスたちだ。上層部だ」と彼は言った。

 

 メキシコで、内部情報の流出の問題があることがよく知っていた。これまでもしばしば、情報をメキシコ側に送ると、いつも何か起こりそうになっていた。

 

 ずいぶん前から、トレビーニョ兄弟の居場所を試みていた。居場所を突き止めて、「今、ここにいる」と言えるようにするためにはどうしたらいいか、方法を探していた。奴らはいつも移動しているということはわかっていた。これは、奴らの居所を突き止めるための機会のひとつだった。私たちが長い間頑張ってきた末にたどり着いたものだった。協力するようにと、私たちは捕らえた奴にプレッシャーをかけた。妻や母親を人質に取った。この大捕物のためにわれわれは準備していた。

 

 それは大きなチャンスだった。しかし無駄になってしまった。ヘマをして危機的な状況を招いてしまったからだ。

 

 

 

 バスケス、モレノ、クエジャル、ガルサは大虐殺が始まったとき、アメリカ側に逃げ、減刑を求めて合衆国当局に協力を申し出た。最後のガルサの家族の農場は、大量殺害の現場になっていた。アジェンデで起こったことに関する身の毛もよだつ報告がもたらされ、合衆国当局者たちは、その情報漏えいによって猛烈な報復攻撃が行われたことに気づいた。

 

 

 

クエジャル (セタスの幹部)

 

 私が初めてDEAと会った時のことを覚えている。コアウイラ州で何が起こっているか、とくにの暴力について、彼らに説明した。エルネスト・ゴンサレスがテーブルから立ち上がり、出て行って、DEAの上司のひとりと議論していたのを覚えている。上司に向かって怒鳴り始めた。こんなふうに言っていた。「何が起こっているか、聞いただろう? これは全部、あんたがメキシコにあの番号を送ったせいだ」

 

 

 

ゴンサレス (連邦検察官補佐)

 

 これは失敗だった、と彼に言った。そんなことが起こってはならなかった。奴らを逮捕するのに役立つかもしれない情報を持っていたが、しかし、ちゃんとやらなかったから、全部ダメになってしまった。その結果、とんでもない事態になってしまったのだ。

 

 

 

――結果――

 

  何年もの間、メキシコの州当局も連邦当局も、この事件をまともに捜査しようと努力していなかったようだ。メキシコの連邦当局は、この殺人事件は組織犯罪と関連付けられなかったので、自分たちの前任者らは調査しなかったのだと言った。しかし彼ら自身も捜査は行っていないことを認めた。

 

 推定される死者と行方不明者の数も、大きく異なっている。公的発表によれば28人、被害者組織によれば約300人、当誌が調査した結果では約60人だった。これらの死者・行方不明者らは、家族や友人ら、犠牲者支援のグループ、司法当局の資料、あの年、セタスに包囲された中で出された新聞記事によって確認されたものである。

 

 犠牲者家族らは、事件について調べ、暮らしを立て直すにも、誰からの支援も得られなかった。

 

 20115月、エクトル・レイノサ・ペレスは州当局に行方不明者の申し立てを行った。ガルサ家のひとりと結婚していた彼の姉妹が、家族ともども行方不明になっていた。1年もたたないうちに、ペレス自身も行方不明になった。ペレスが最後に目撃されたのは、アジェンデの警察官に連行されて行った時だったと、コレヒオ・デ・メヒコの独立人権調査団体の報告書は述べている。

 

 それ以来、犠牲者家族は当局に捜査依頼をあえてしようとはほとんどしなくなった。その悲劇についておおやけに話そうとするする人はもっと少なかった。多くは合衆国側に引っ越した。

 

 犠牲者のなかでもっとも多くの家族を失ったが出たのが、ガルサ家だった。約20人が亡くなったと考えられている。そのなかには、81歳のオリビア・マルティネス・デラトレとそのひ孫で7か月のマウリシオ・エスピノサも含まれている。赤ん坊のきょうだいのアンドレア(5歳)、アルトゥロ(3歳)は、両親が殺害された後、ピエドラス・ネグラスの児童養護施設で見つかった。

 

 父方の祖母でサン・アントニオでホテルの給仕として働いているエルビラ・エスピノサが夫ともに彼らを迎えに行った。

 

 

 

エルビラ・エスピノサ (ホテルの受付係、エスピノサきょうだいの祖母)

 

 アンドレアによると、軽トラックに乗せられて、屋根がない家があるところまで連れていかれたそうだ。男たちは彼女の母親と祖母と曾祖母を車から降ろした。男らは子どもたちに、「ここにいるんだ。おれたちは彼女らと話がある」

 

 男たちは子どもたちをそこに残し、静かにするように、泣くな、と言った。アンドレアによれば、自分で赤ん坊の弟のおむつを替えて、ミルクを用意したという。

 

 彼女は何日そこにいたのかよく覚えていない。それから男たちが来て、弟たちと一緒にピエドラス・ネグラスに連れて行った。アンドレアによれば、自分たちはどこかの公園に置き去りにされたが、赤ん坊のマウリシオは連れて行ってしまった。

 

 赤ん坊を置いて行って、と彼らに懇願したのだそうだ。しかし男たちは、赤ん坊はとても小さいから一緒に置いておくと泣いてばかりいると彼女に言った。

 

 アンドレアはそのことで自分を責めている。「もし私がもっと強かったら、マウリシオはまだ生きていたのに」と言うのだ。

 

 

 

リラ (犠牲者のひとりの妻)

 

 私は告訴を行った。捜査官はこれは内密にする、と私に言った。私の氏名は匿名にすると約束した。それから数日後、脅迫電話を受けた。誰かが私の携帯に電話してきて、告訴を取り下げないと、夫に起きたのと同じことが私の残りの家族にも起こるぞと言った。私の両親はまだアジェンデに住んでいた。もし彼らの身に何か起こったら、後悔してもしきれないだろう。

 

 その同じ日、捜査官に電話した。私の名前を秘密にしておくと言ったのに嘘をついた、告訴を取り下げたい、と彼に言った。

 

 さらに、サン・アントニオのメキシコ領事館に行った。なんと言われたか、信じられますか? 私のせいだというんですよ。「ああ、夫が行方不明になったから泣きついていらっしゃる。あなたはご家族が何の仕事にかかわっていたか、ご存じだったでしょう。実際にひどい目に遭うまで問題だとは思ってなかったんです」と言われたんです。

 

 もうそれ以上、何も政府には要求しなかった。

 

 

 

 ロス・セタスによる大虐殺事件から3年後、コアウイラ州知事ルベン・モレイラは、州警察はアジェンデで起きた事件について捜査を行うと述べた。証拠を集め、真実を解明するための「大捜査」を行うと大々的に報道した。犠牲者の家族やアジェンデの住人たちによると、それはただの宣伝に過ぎなかったという。調査では、DNA鑑定の結果も出さず、死者・行方不明者の最終的な集計も発表されなかった。

 

 10人ほどの容疑者が逮捕されたが、大部分は地元警察官と指示に従っていただけのマフィアの下働きだった。殺人で起訴された者はいなかった。2015年、コアウイラ州特別検察庁が犠牲者家族らと連続的に会合を持つようになった。犠牲者らは、容疑者の自白から、死亡していると推定された。遺体はないが、死亡証明書が発行され、そこには死因として、「心不全」や「火炎に直接晒されたことによる完全焼却」などと書かれていた。

 

 

 

サンチェス (被害者のひとりの母親)

 

 彼ら(コアウイラ州当局)が私にその知らせを送ってきたとき、私は全身の力が抜けてしまった。ヘラルドは農園に連れていかれて殺されたと言われた。私の中の何かが、それは真実だと言った。それでも私は尋ねた。「それが息子だというのは確かですか?」

 

 証人のひとりによると、犠牲者のなかに子どもを3人連れた家族があり、そのうちのひとりが私の息子だったそうです。その子が泣き始めた。泣いて泣いて。それが彼らをいらだたせた。だから殺した、と言うのです。なんてこと。もう我慢できなかった。15歳の、怖がって泣いている子どもを殺す人がいるなんて、ありえるの?

 

 警察官らは、何がほしいのかと私にたずねた。私の息子の遺体がほしい、と答えた。すると、息子はたくさんのほかの人たちと一緒に焼かれたからそれは難しい、と言われた。代わりに、灰と、息子が死んだ場所の土を持ってきた。現場に行けるかと尋ねたが、そこは安全じゃないと言われた。何が何でも行きたいというと、警備を数人付けて現場に連れて行ってくれた。

 

驚いたことに、その現場が意外に近くだった。ヘラルドはあんなに強い子だったから、もし逃げて街道までたどり着いていたら、家に帰るのは簡単だったかもしれない、と思った。

 

 

 

ロドリゲス (犠牲者のひとりの妻)

 

 検事とそのチームは午後に着くはずだった。しかし実際に着いたときにはもう日が暮れていた。私たちは5時間以上待たされた。そしてやっと来たと思ったら、形式的なことしか言わなかった。私たちに死亡証明書を発行するというのだ。それは逮捕された者たちの証言に基づいて作ったという。土くれが入った小さな容器を用意していて、ほしいという人に与えた。それだけだった。

 

 私は彼らにこう言った。「ちょっと待って。私は死亡証明書とこの入れ物をもらうためだけに6時間も待ったんじゃない。私たちは人間よ。これが私たちを納得させるための正しいやり方だなんて、どうやったら考えられるの? どこで何が起きたのか、わかったことを教えてほしい。殺人犯はどこにいるの? 夫はどうやって殺されたの?

 

 彼らは、その話はひどすぎて聞くに堪えないでしょう、残酷すぎて言えない、と言った。でも私はこう言ったのだ、自分がひとりであれこれ想像していたことよりひどいことなんてない、と。

 

 容疑者たちは、地元の人じゃなければどうやって私の夫の名前を知ることができたのか? この時まで私たちは、こんな事件を起こしたのはよその州から連れてこられた人たちだと思っていた。

 

 そこで初めてそいつらが地元の人たちだと知らされたのだ。どこか知らない場所から来たと思っていた化け物たちは、私たちの隣人で、私たちを守るべき立場にあった人たちだったのだ。

 

 

 

ベラ (犠牲者のひとりの妻)

 

 私がもらったのは、2011319日の日付の入った死亡証明書だった。彼が行方不明になった日の翌日の日付だ。私が唯一質問したことは、それは間違いなく確実なのか、ということだけだった。収集した骨片からは検視官らは確証することはできなかったので、100%確実とは言えない、と彼らは言った。しかし大虐殺の現場にエドガルがいたのは確実だと言われた。証人の宣言があったからだと思う。

 

 まだ、それが本当なのかどうかわからない。5年もの間、当局は何もしないで、それで突然、事件は解決した、そう信じろと言うのだ。

 

 もし私の夫の調書を見ることができたら、絶対に白紙のままのはずだ。

 

 いずれにしても、この死亡証明書をもらって、手付かずだったいろいろなことをやり始めた。家を引っ越した。娘と自分の衣類と家具だけ持って行った。夫のエドガルの服は、クローゼットにかけたまま、向こうに置いてきた。

 

 やっと、何が起きたのか、娘とはっきりと話すことができた。それまでは、お父さんが死んだと彼女に言うことができなかった。もしかしたら帰ってくるのでは、思っていたから。たぶん、娘も事情はわかっていたのだと思う。

 

 

 

 最終的にトレビーニョ兄弟は、それぞれ2013年と2015年に、メキシコ海軍が率いる作戦で逮捕された。それ以来、コアウイラ州におけるセタスの支配は弱まり、アジェンデでも夜に出歩けるようになった。もっとも、多くの住民はいまだに心に傷を抱え、よそ者に不信の目を向ける。麻薬密輸に関連した暴力のニュースを聞くたび恐怖にかられる。トレビーニョ兄弟は刑務所から密輸をコントロールしているかもしれないからだ。

 

 DEAは、兄弟の逮捕は自分たちの手柄だとしているが、暗証番号に関する情報がどうやってセタスに漏れたのかについて調査したかどうかは何も語っていない。ダラスでのマルティネスの上司であるテランス・コールと、当時のメキシコシティでのDEAのスーパーバイザー、ポール・クニリムは、取材を拒否した。後者は、DEAによって訓練されたメキシコ連邦警察の特殊班との連絡役だった。

 

 クリニムは昇進し、現在はワシントンのDEAの中央局の作戦部長補佐である。

 

 それでも、マルティネスは取材に応じ、虐殺事件で彼が果たした役割についてたずねると、しばし喉を苦しげに詰まらせながらも語ってくれた。2011年に優秀な捜査官として顕彰され彼は、いまは結腸癌を患い、これまで医学療法は功を奏していない。DEAの広報官ルス・バエルは、ワシントンDCからテキサスに出張してきて、マルティネスともうひとりの捜査官に対するインタビューを監視した。マルティネスが話していたとき、バエルはそこに割り込んで、セタスの最高幹部らは収監され、連邦当局によって行われた捜査は成功を収めたのだと強調した。

 

 

 

ゴンサレス (連邦検察官補佐) 

 

 この件では、私は本当に心が引き裂かれるような思いだ。この種の仕事では、コラテラルダメージというものは起こりがちだということはわかっている。誰かが殺害されるなどする可能性はいつもある。しかし今回のような事件の当事者になり、何もできないというのは無念でならない。

 

 目的な正当なものだった。それ以上の殺人を犯させないために犯人らを逮捕して刑務所に入れる。しかし捜査のある時点で、逆の結果を招いてしまった。

 

 ミゲル・アンヘルとオマルのトレビーニョ兄弟の残虐さと過去に犯した容赦ない暴力については聞いていた。それでも、そこまでやるとは私には信じられなかった。麻薬取引とは無関係な人まで含めて、どんなにわずかでも関係があれば、拉致され殺害されていたのだ。そんなことはあり得ないと思っていた。もしかしたらあり得たかもしれない。しかし実際にそれが起きるまで、ありえるとは思っていなかった。

 

 

 

マルティネス (DEA捜査官)

 

 私は暗証番号を手に入れた。それを仲間に伝えた。それ以上のことにはかかわっていない。

 

 皆、暗証番号は危険なものだということはわかっていた。暗証番号を頑張って手に入れても、ダラスの本部ではそれでどうするつもりだったのか? 人が言うほど、電話の盗聴は簡単なものではない。何が起きるかわからない。

 

 私としては、番号を手に入れ、それを伝えただけだった。それが私の仕事だ。

 

 当局のことは私は何も言えない。私は自分に言えるのは自分が果たした役割だけだ。私はできる限りのことをした。 

 

 私はやってみた。そういう感じだ。当時としては最善を尽くした。情報を得る機会に恵まれ、それを伝えた。成功したのだ。私は勝手にメキシコに入国することはできず、個人的にこの件を担当することはできないのだ。

 

 

 

ルス・バエル (DEA広報官)

 

 この人の話は聞いた。メキシコ出身の家族がいて、健康問題を抱えているという話だった。事件について、ときに泣き崩れそうになったりしながら話していた。非常に精神的に強い思い入れがあるからだ。テレビの「マイアミ・バイス」にあこがれて就職し、DEAで働き、公僕としての職務に生涯をささげ、セタス・カルテルの解体に貢献した。そんな個人史…たぶん、素晴らしい。私にはぞっとするものだが。

 

 メキシコで起きたことと情報漏えいがもたらした結果については、DEAの公的見解としては、すべての責任はオマルとミゲルのトレビーニョ兄弟にあるとしている。あの事件が起きる前から彼らは人々を殺していて、暗証番号が密告されてからも同じように人々を殺した。DEAは彼らを捕まえるために仕事をし、彼らに密輸をやめさせるためにわれわれは作戦を展開した。その意味では、われわれは最終的な成功をおさめた。

 

 われわれはご遺族に心より同情を寄せている。彼らは、悲しいことにトレビーニョ兄弟とロス・セタスが振るった暴力の犠牲者だ。しかしこれは、DEAの手が血で汚れているといった話ではない。

 

 

 

著者

 

ジンジャー・トムプソン: ProPublicaのシニア・レポーター。ピュリッツアー賞を受賞し、ニューヨーク・タイムズ紙の国内及び海外特派員を務めていた。

 

アレハンドラ・シャニク: メキシコシティ在住のフリーランス・レポーター。本稿の調査と報道に協力した。