ミチョアカンの戦争 ~その後

 

ドキュメンタリー『カルテル・ランド』が収録された2013~2014年は、ミチョアカンの「熱い土地」は、激しくまた混沌とした「戦争」の時代だった。

その後、状況はどのように変わったのか? 最近のルポを翻訳してみた。

 

ナルコから自警団に、自警団からナルコに。 

裏切りと乗り換えはミチョアカンの常識。

 

 Vice News en español / Sinembargo

メキシコシティ、79日 

 

 空き倉庫の中で牛肉とトルティージャを食べながら、ひとりの太った男が、18歳の時、自分はDEA(合衆国麻薬取締局)の捜査官を志願していたんだと語った。14年後の今、彼は8人の戦闘員を率いるテンプル騎士団のリーダーである。テンプルは、かつてメキシコ・ミチョアカン州で非常に大きな影響力を持っていたカルテルである。

 

 「時々自問するよ。すべての犠牲はそのかいがあることだったのか、と」。ほかの麻薬カルテルや、政府が支援する自警団に鞍替えした元の仲間たちを相手にした抗争のことを、彼はそのように語った。「すぐに武器を隠して逃げていればよかったんだ。たたかいに意味なんかなかった。そうしておれば、大勢の仲間たちは今も生きていたのに」

 

 そしていまわれわれは、ミチョアカンの別の場所に来ている。相対している男は、前の男よりも年齢は上で小太りである。彼はテンプル騎士団の元メンバーで、いまは自警団グループのリーダーである。この自警団は元カルテルの戦闘員から成り立っており、犯罪からは足を洗ったというが、武器は捨てることはありえないという。

 

 「もし武器を持っていなかったら、悪者どもに殺されてしまう」とこの自警団リーダーの男は言い、ヤギ肉料理の皿をマンゴーの樹の陰に置いた。

 

 かつて同じ組織の仲間で、いまは敵対するこの2人の男を、仮にルイスとパンチョと呼ぶことにしよう。なぜミチョアカンが、メキシコ国内でももっとも暴力的な地域のひとつであり続けるのか、この2人の物語を紐解くことで理解することができるだろう。メキシコにおいては、10年にもわたるいわゆる「麻薬撲滅戦争」によって、10万人以上の犠牲者が出ている。

  

この暴力的状況は、フェリペ・カルデロン大統領が200612月に就任し、カルテル撲滅を宣言して以来、急拡大した。大統領の出身地であるミチョアカン州の「熱い土地」地方で、最初の作戦が行われた。

 カルデロンの後継者のエンリケ・ペニャ・ニエト大統領は、2012年に就任したとき、麻薬戦争に関してはほとんど方針を変えなかった。ペニャ・ニエト政権は、テンプル騎士団を壊滅させ、これに対抗して出てきた自警団をコントロールすることができたと発表した。

 しかしこれは「熱い土地」での実情とは大きく異なっている。この地域は近年の暴力の傷跡に苦しむだけでなく、いま現在少なくとも13の武装犯罪グループが存在し、その大部分はテンプル騎士団とその元メンバーらである。暴力的な抗争はいつ再発してもおかしくない状況で、人々は戦々恐々としている。

 これらの武装グループ間の暴力は、この地域ではいまだ絶えることがないが、軍と連邦警察等が大規模に展開しているおかげで、かつてのテンプル騎士団の根拠地だったアパツィンガン市では目立つ抗争は起こっていない。

 

 この状況は、アパツィンガン市の市境から数分離れただけで変わってくる。道路は、低い丘陵地から急こう配で険しい山岳地に差し掛かる。そこではだれも覚えていないほどずっと昔からマリワナが栽培されてきており、さらに今どきのアメリカ人の好みに合わせて覚せい剤が密造されているのだ。

 

 テンプル騎士団の武装部隊のルイスの砦、というか活動拠点は、アパツィンガンから約40キロの場所にある。そこに行くためには、ライバル組織の支配地を横切らざるをえない。それは、「プンテロ」とか「タカ」などと呼ばれる見張りの若者たちがいることでわかる。彼らは不審な動きがあればすぐに無線で報告することになっている。敵対グループの領地は川までで、そこにかかるコンクリートの橋は地元民には「境界」として知られている。

 そこからは、道路はアスファルトから土に変わり、経験豊富な運転手でも苦労するほどの激しい凹凸である。道路は低木が茂る荒野をくねくねとたどり、道端にはところどころに背の高いサボテンが生えているだけである。

 

 「熱い土地」での無数の抗争のなかでももっとも特異な出来事の名残りが、この地域にみられる。小さな丘のふもとに、荒れ果てたオレンジ色の寺院がある。その寺院は201012月、ナサリオ・モレノ・ゴンサレス、またの名をエル・チャヨあるいは「大狂人」として知られる男が警察のヘリコプターからの銃撃によって殺害された場所を祈念するために建立されたものだ。少なくとも、当時のフェリペ・カルデロン政権は「殺害した」と発表した。

 

 モレノは、2000年代初めに「熱い土地」で創設されたラ・ファミリア・ミチョアカナ・カルテルのリーダーとして知られていた。そしてかつてのボスであったロス・セタスから地域の支配権を奪い取るだけの実力があるところを見せつけた。ファミリア・カルテルは覚せい剤からアボカド、さらに地域内での抗争の解決まで、ほとんどすべてを支配するまでになった。

 宗教的な思想に基づくことを主張する一方で、無数の人々を殺害し、大規模で組織的な恐喝を行った。カルテルのメンバーは宗教儀礼の一環として敵の心臓を食べていたとも言われている。

 

 カルデロン大統領はその2010年にナサリオ・モレノを殺害したことを、組織犯罪打倒のキャンペーンの大勝利として大々的に発表した。しかし問題は、実際にはこの大ボスはまだ生きていたことだった。それはもっとのちに確認されることになる。

 公には死亡したと宣言され、モレノは「聖ナサロ」としての自分自身の伝説を作り上げた。自分は「病人の守護神」だとして、自分のための祈祷文を書いた。それだけでなく、さらに新しい「テンプル騎士団」と名乗る新しいカルテルを立ち上げた。

 

 テンプル・カルテルは、ファミリア・ミチョアカナが逃げていった地域を支配したが、しかしそこに新たな敵が現れた。それが市民によって結成された自警団で、2013年にこの地域一帯に拡大していった。市民を恐喝したり誘拐したりしていたカルテルを打倒するために立ち上がったものだ。その後、自警団のうちのいくつかは政府と協力し、犯罪組織の支配を終わらせるために合同作戦を実行した。

 地元民によると、2014年の初め、テンプル騎士団の支配地に、連邦軍の軍用車50台とほかの部隊からなる連隊が進撃し、その道すがら、ナサリオ・モレノの寺院も破壊したのだという。今、その場所には銃弾やガラスの破片が散らばり、ごみが地面を覆っている。ナルコ聖人の黄金の立像もいまはない。

La cruz y el santuario de El Más Loco, monumento a su primera muerte. (Imagen por Falko Ernst/VICE News)

 

 

 20143月、エンリケ・ペニャ・ニエト政権は、当局との交戦の末、今度こそこの麻薬マフィアを殺害したと発表した。そののち、20153月、ナンバー2のラ・トゥタことセルバンド・ゴメス・マルティネスを逮捕したときには、テンプル騎士団をついに壊滅したと宣言した。

 

 しかし、ルイスが指揮するテンプルの戦闘員たちは、それは違うという。彼らは道路の行き止まりにある20軒ばかりの貧しげな家があるだけの村を基地としている。誕生日のパーティで音楽の生演奏を聴き、ビールを飲みながら、状況を語ってくれた。

 彼らのAK-47や組み立てられたグラネードランチャー、50ミリのバレットライフルを見せられると、カルテルが壊滅したなどというのはあり得ないとわかる。37キロという重さ、2.8キロの照準距離、そして19発の実弾入りの薬きょうが1,042ドルもすることを説明してくれた。その薬きょうの値段は、戦闘員一人当たりの月給の3倍である。

 

 ルイスはアメリカ、サンフランシスコの湾岸地域で学生だった頃の話をしてくれた。当時、麻薬マフィアを取り締まるためにDEAの捜査官になりたいと夢見ていた。しかし自分の兄が覚せい剤の密売組織のリーダーだとして逮捕されて、すべての夢は潰えてしまった。彼は刑務所に4年間収監され、2006年にメキシコに送還された。自分はけっしてかかわってはいなかったというのだが。

 ルイスはラ・ファミリアの仲間に入り、その後エル・チャヨについてテンプル騎士団に加わった。状況が困難になってきたても、チャヨには忠誠を尽くした。自警団に加わり、たやすく敵側に寝返った元の仲間たちの「裏切り」を残念がった。2014年半ばに戦闘停止の命令を受けるまで続いた抗争のことを今もありありと覚えている。

 

 ルイスによると、かつて彼は州都のモレリアを支配しており、そこで妻と小さい2人の子どもたちと一緒に平和に暮らしていた。しかしある日、男たちが家に来て家族を襲撃した。妻を殴り、子どもたちを脅した。「誰だったのか俺は知っている。奴がどこにいるかも知っている。そのうち仕返しをしてやる」。

 ルイスは、20161月に、いまいる場所にテンプル騎士団の自分の新しい部隊を移したという。すべて平和だというが、我々がいる丘陵地を取り巻く形で狙撃兵が配置され、常に他の武装組織の侵入に備えている。

 敵対グループのひとつは、ルイスの砦とアパツィンガン市の間にある川の向こう側のグループである。さらに別の敵対グループは、村を取り巻く高い山の反対側に基地を構えている。

 そのようなわけで、チームは村のすぐ外の野営地で夜を過ごすのである。さらに、近隣の村で銃撃があったとルイスの無線に連絡があれば、すぐさま装備を整えて砦を出られるようにしていなければならない。

 

 今も戦争状態だが、これは2010年にラ・ファミリアが分裂し、テンプル騎士団が創設されたときにピークに達したときの激戦や、20132014年にかけて自警団が騎士団と戦った際のとはくらべものにはならないほどささやかなものだ。

 それでも、つねに死者は各地で出ており、「熱い土地」での暴力は終息したという政府の発表を裏切っている。さらに、カルテルメンバー、元メンバー、自警団という区分は常にあいまいなものだという教訓も残している。

 

Un sicario limpia una Barrett .50mm. (Imagen por Falko Ernst/VICE News)

 

 

 パンチョの場合は、正義と悪、自称自由のための闘士と麻薬マフィアの間の線引きがいかにあいまいでありえるかを明確に示している。

 彼によると、テンプルから出たのは、このカルテルのリーダーがあまりの横暴で、うんざりしたからだという。自警団がカルテルに対抗するに十分な実力を持っていると見えてきたところで、自警団運動に加わったという。

 表向きには、パンチョと自警団グループは勝利した。そして騎士団を追い出した後、自警団の一部は、地方警察隊と呼ばれる新しい組織として連邦当局に統合された。この組織は、これも表向きだが、20165月に完全に解体された。

 

 しかし、アパツィンガンから24キロのところに基地をおくこの自警団グループは、依然として活動中である。

 パンチョによると、武器を置くことは不可能だという。なぜなら騎士団は、地元の農業経営者から取り立てて保護料というあぶく銭で潤っていた時代に戻りたくて仕方がないからだというのだ。経営者らはもう脅しを受けているという。

 「以前それぞれがどれだけ払っていたかというリストがある。とんでもなく額だ」

 さらにパンチョは、再生したテンプル騎士団に対して政府が決定的な攻撃を行わないので、この地域ではいつ抗争が再発してもおかしくないという。

 

 ほんの3か月前、騎士団カルテルは、彼の支配地を奪いに侵入しかけていた。パンチョによると、そのような事態に備えて準備していたグループの非常事態宣言を発令した。指令によって150台の車両が出動し、部下が配置に付き、敵の侵入に備えた。部隊の展開を見てテンプル側は躊躇し、考え直したようだという。一発の銃撃もなく彼らは引き返していったという。

 

 パンチョによると、かつて仲間だったテンプル騎士団からの脅威は、「ロス・ビアグラス」と呼ばれるグループと同盟するようになってから、ひどくなっているという。

 ビアグラスは、独立系の犯罪グループで、地元で一番有力だとみればどことでも連帯する。最初は、ロス・セタス、さらにラ・ファミリア、テンプル騎士団。一時期はテンプル騎士団打倒のための連邦政府側のもっとも重要な部隊にもなった。しかしその同盟はもう消えたようだ。ビアグラスは、再びテンプルの仲間になったのだ。

 

 ナルコから自警団に転換したパンチョは、テンプルやビアグラスを遠ざけるためにたたかっているのに、連邦警察からも軍からも支援をしてもらえないと嘆くが、「誰が正義で誰が悪か」を区別するための信用にはつながっている。

 おかげで彼のグループは、農業関連企業が自衛のために10人の武装部隊を雇用し、過去の悪夢がよみがえらないようにするという契約をとりつけた。しかしこれは同時に、非合法がまかり通るグレーゾーンで、復讐や暴力に満ちた土地に、350人ものメンバーを抱える一種の民間武装グループが創設されていることを意味する。さらにそれは、ミチョアカンは再び法治国家として立ち直りかけているという、政府の発表が嘘であることを暴いてもいる。

 

 パンチョは、自分のグループは国家の代わりをしたり、まして国家に対抗しようなどとはけっして思わないという。

 だがそうはいえども、別の情報源によれば、彼と彼のグループは麻薬密輸のための過酷なテリトリーとルート争いの当事者だとも指摘されている。数こそは減ったとはいえ、そのためにミチョアカン州では殺人やバラバラ死体の遺棄が続いているのである。

 

 ほかの武装グループ、そこには連邦政府も含めてだが、互いの勢力を伺いあう現状の中での彼の立場がどうであれ、パンチョはインタビューの間、ずっと静かな口調で語っていた。しかし、ミチョアカン州知事シルバノ・アウレオレス・コネホの、彼のような自称自警団グループを武装解除する計画について話が及んだときだけは声を荒げた。

 「あの男は何もわかっていない」と知事の計画についていう。「パトロールカー1台、警察官4人、それだけで、自分と家族と家と妻と、守れるのか? できないだろう?」

 

 この記事のためにインタビューしたその2日後、パンチョのいとこのひとりが自動車に給油していた最中に、ビアグラスのメンバーと思われる殺し屋に殺害された。これで、今年に入って彼は3人もの親族を殺害されたことになる。