平和を求める市民運動

こんな感じで刺繍しています。
こんな感じで刺繍しています。
「2011年11月2日、ヌエボレオン州カデレイタで男性の死体が発見された」
「2011年11月2日、ヌエボレオン州カデレイタで男性の死体が発見された」
死者を悼む赤い文字が縫い取られたハンカチがはためく
死者を悼む赤い文字が縫い取られたハンカチがはためく

 

メキシコ滞在中(20128)、首都の革命記念塔を訪れると、7月の大統領選挙結果に不満を訴える学生らのグループYoSoy132(私が132人目)が座り込みのテントを張っていた。その隣でテントを出していたのが、麻薬戦争の終結を求める市民グループ「平和のための刺しゅう(Bordados por la Paz)

テント前には赤い刺しゅう糸で文字が縫い取られた白いハンカチが何十枚もロープにつるされ、風にはためていた。赤い文字は、「日、私の愛する息子は殺し屋に殺された」「モレリアで人が銃撃戦で死亡した」などなど、麻薬戦争の犠牲となった人々を悼む言葉である。白いハンカチは命を、赤い文字は血を示しているとのことだった。行方不明者の場合は、緑の糸で文字を縫うのだそうだ。

その場にいた女性に話を聞くと、いつもは日曜にコヨアカンの公園で活動し、通りかかった人たちに声をかけ、刺しゅうに参加してもらって、失われた命の尊さに思いを馳せてもらうのだそうだ。これまでインド人、イタリア人など外国人も参加したことがあり、日本人も来て下書きしたハンカチを持ち帰って縫い、出来上がった刺しゅうの写真をフェイスブックにのせたことがあったとか。

一文字だけでもいいと言われ、私もその場で椅子に腰かけて、1単語だけ刺しゅうすることに。私が当たったのは “sicarios(殺し屋たち)”の文字(^_^;)

刺しゅうはわりと好きなほうだが、あまりにも女性的すぎて、平和のためとはいえ正直なところ、ちょっとなーという気持ちもあった。日本の第二次大戦中の千人針も、つい連想してしまった。が、実際に時間と手間をかけて一文字ずつ縫い、針先で指をチクリと刺して痛みを感じたりするうちに、気持ちが変わってきた。そこでかかる時間などよりもっともっと長い時間を生きてきて、さらにもっと長く生きるはずだった人の命が、一瞬のうちに暴力的に奪われたのだ。それなのに、人が殺されても、新聞では数行しか報道されず、遺体の身元すら確認されないことすらある。命の重みに思いを改めて気付かされたひと時だった。

 

 麻薬密輸カルテルの撲滅を目指すはずの政策が逆説的に治安を悪化させ、一般市民までも巻き込んだ犠牲者が数を増すなか、政策の見直しと治安回復を求める市民の声が高まってきている。その代表的なものが、「正義と尊厳ある平和のための運動(Movimiento por la Paz con Justicia y Dignidadhttp://movimientoporlapaz.mx/である。

これは息子をマフィアの抗争で失ったメキシコ人詩人ハビエル・シシリアが代表となる市民団体で、20114月にメキシコ市民の呼びかけ、麻薬戦争による暴力抑制を求めるデモを行った。

 このデモは多くの人々の賛同を集め、これまでに何度かキャラバンを組み、メキシコ国内を旅して各地で治安回復と正義を求め、政府に対して申し入れを行ってきた。

 

 20128月からは、シシリアらのキャラバンはアメリカ合衆国のおもに南部のメキシコ国境に近い都市を巡っている。なんといっても、メキシコでの麻薬取引を巡る暴力のほとんどは、アメリカ人がパーティーでハイになるために麻薬を欲しがることから起きていることなのだ。メキシコ人の間でも近年麻薬の消費は多少伸びているとはいえ、北米での消費量に比べればまだまだかわいいもの。アメリカ合衆国での麻薬消費のコントロールと武器流通の規制、これが国境の南側での暴力を抑制するための最善策なのは誰が見ても明らかだ。アメリカ合衆国でも多くの市民団体がシシリアらの活動を支援しているが、米国の一般市民や政治家らはいまひとつ反応が鈍いようだ。

 

 麻薬戦争の暴力と一言で言っても、個々の事件によって背景はまちまちである。たまたま銃撃戦に巻き込まれ、流れ弾が当たったなどというケースもあれば、人違いで誘拐や殺害をされることもある。なにか問題に巻き込まれていたのかもしれないが、多くの場合家族も事情を知らないことが少なくない。実際、殺害や誘拐の犠牲者になる人は、彼ら自身が危ないことに手を染めていたからだなどと批判されることがしばしばで、さらに警察などに訴えると犯人から復讐されるかもしないとおびえ、犠牲者の家族はこれまで声をあげることができなかった。

犯罪被害の届け出率は1割程度ともいわれ、たとえ勇気を出して警察や裁判所に訴え出ても、まっとうな捜査がされることはなく、犯罪者が検挙される方が珍しいくらいだ。

そんななかで、愛する家族の死の真相を求めるプラカードを手にシシリアらのキャラバンに参加することは勇気のいる行動といえる。たとえ犠牲者本人にもなにかの落ち度があったとしても、殺害や誘拐は当然、犯罪である。家族にはその死の真相を知る権利があり、加害者には司法の場で正当な処罰が下されるべきだ。

「死」が跋扈し、人の命があまりにも軽んじられる今日のメキシコで、平和を求めるシシリアらの活動は、当たり前のはずの市民としての権利を回復しようというものだ。